ギャンブルへののめり込みが激しすぎて、借金もどうにもならなくなり、周りの友達や、彼女も段々呆れてしまい、少しずつ人が離れて行きました。
それでもギャンブル場へ通うことは辞めず、足掻きます。
最後の方は、パチンコではもう返済できないと思い、競馬や競艇に行き、そこでまた負けていました。
競馬の予想ソフトを購入したり、競艇場のおじさんと仲良くなり、コーチしてもらったりして、月に100万勝つこともありましたが、それはほんの何回か、
勝ったところで散財し、またギャンブルの資金にしてしまうので、借金は全く減らない状態でした。
大学3年の前期終了時点で、大学に通うのはもう無理なことを自覚していました。(推薦で入学したので、何年も留年はできないので)
もうどうにもならなくなって、一旦親に、大学を辞めることは伝えようと思い、夏休みを理由に、帰省しました。
大学を辞めることを言った瞬間の親父、お袋の落胆具合は、今でも覚えています。
親父や兄貴が入りたかった憧れの大学でもあり、またギャンブルが原因などとは当然ながらだれも思わないので、なぜこんなに単位も取れてないんだ、ひとりぼっちだから寂しかったのか、と初めは同情してくれました。
そして職探しもあるし、一旦帰ろうとしていた時、親父がたまたま飛行機のチケットを見て、カードで航空券を買ったことがわかり、
『何か隠し事があるだろう、全て話すまでは帰るな』
と言われました。そこで、観念し、借金がたくさんあること、ほとんど毎日のようにギャンブルをしていたことを白状しました。もちろん借金は全額は言いませんでしたが。
『もう死んじゃえばいいんだよ、この馬鹿野郎!』
とボコボコにされましたが、当然でしょうね。親父の怒りはもっともでしたが、返済をすぐに準備してくれるのを見て、ほっとしてました。
そして何日か後、帰ろうかなと言ったら、『返済してほしいなら、全てを捨てて、一からやり直せ!』
その後お前がどこに行こうと勝手だが、今のまま返すわけにはいかないぞ、そもそもお前はなにをしようとしてるんだ?
と言われ、抵抗することもできず、後日お袋とアパートを引き払うことになりました。
乱れた生活のせいで、部屋は大変なことになっていました。
マンガ本の山、ゴミの山、洗ってない食器など、今で言うゴミ屋敷状態で、ワンルームの部屋なのに、片付けるのに、何日もかかりました。
そして、冷たい視線の大家さんに母が平謝りをしていました。自分のせいなのに、すごく悔しかったです。
外にゴミを出したら、あまりにも多すぎて、回収してくれないので、少しずつ大家さんが出してくれることになりました。
最後の最後まで迷惑をかけました。
ここが最大の転機だったのかもしれませんが、もうギャンブル依存症になってしまっていた私は、この後もずっと悪い状態のまま、20年近くを過ごしていきました。
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