おはようございます、ベロです。
昨日の続きですね。やりたい放題の生活の後、会社が倒産のため、転職することでやっと回復へのきっかけを掴むことになります。
最初の頃は毎日不満だらけでした。
所長をしていたのに、ただの平社員から。
なんでだよ、俺は能力あるんだ!
と思ってましたが、そこはこの会社の素晴らしいところ。私なんかまだまだ未熟者もいいところ、スペシャリストは他にも沢山いらっしゃいました。
その頃の私はかなり荒れてて、しかも前の会社で横領などして作っていたお金も多少なりともあったので、変わらず好き放題、時間を作ってギャンブルをしていました。
でもここでちゃんと神様は負けさせてくれます。この転職をきっかけに、パチンコは本当に全く勝てなくなるのです。
隠し金はどんどん減り、数ヶ月もしない間になくなってしまいます。
そこで私はいつものように親を騙して、10万程貸してくれ、子供が大変だからと平気で嘘を着いて、無事に借りれる手配もつけます。
入金後、一瞬で無くなるのですが、問題はその後。
やはり私が乱れた生活をしているのはそばにいた家族にはわかったのでしょうね。
なんだかおかしいので、若しかするとあなたはギャンブルしてるのかもというモヤモヤがあります。なので、携帯を見ていいか、と言うことを元妻に言われ、半ギレしながら、好きに見てください、と渡しました。
まさかメールが残ってるなんて思いもしなかったので。
しばらく私のメールを見て、「これはなんですか」
と言われて、おかしなことなんてないぞ、全て消したんだから、と思いながら。
あー、残してた😱
母へ口座番号を教えていたのでした。
郵便局の口座番号を送ったメールだけ消し忘れたのです。
その当時から私の両親への不信があった元妻はここですぐに親に電話しました。
「二度と貸さない、隠し事はしないって言ったのに、どうして私に伝えてくれないんですか?」
などと結構な文句を言って、母は平謝りだったようです。
電話を切り、私を睨みつけ、散々悪態を疲れましたが私も平謝り。
次の日が日曜だったので、息子と3人で路面電車に乗りに行きました。
息子と出かけるのも久しぶりで、3人の中で私が一番はしゃいでいたようです。
楽しいな、楽しいな。
そして何事もなかったように出社して、夜帰宅すると、電気が付いてません。
おかしいな、と電気をつけてみると。
誰も居ないし、置き手紙が、心做しか荷物も減っていました。
元妻は子供を連れて実家に帰りました。
すぐに電話をしましたが出ません。
しばらくして、メールがあり、しばらくの期間、あなたと関わりたくないので、食費や生活費などの他の話は一切しません、しかもメールだけで終わらせて欲しい、ということが送信されてきました。
弁解の機会も与えてくれないのかよ、と散々キレまくって居ましたが、連絡する気がないなら仕方ないなと思い、諦めて仕事に行きました。
妻と子供が逃げたということは会社には言えなかったので、毎日せっせと弁当を冷凍食品を使って作り、誤魔化してました。
充分に食費は貰ってましたが、そのお金でまたギャンブルをしたので、生活費もなくなります。
元妻に足りないので送ってくれとメールを入れると、足りないはずはありません、寮で食事を作ってもらうようにしてください、とだけ返事があり、後日1万だけ送ってきました。
私は自分が原因でこんなことになったのにも関わらず、元妻に対する怒りや恨みばかり。
毎日呪いのメールを送り続けたり、謝罪のメールを送ったり、思えば本当に狂っていたと思います。
そして私にあるきっかけが舞い降りて来たのです。
ある日、読みもしない新聞が沢山うちにあったので、片付けていると、1枚だけ新聞が別にありました。
その中に、私がこれからお世話になる病院の紹介と、自助グループのいわゆる「20の質問」が書いてあったのです。
たまたま元妻がこんな人いるんだね、あなたもやばいんじゃないの?
と何の気なしに取っておいた新聞が、その時目に入ったのです。
私は考えました。
ギャンブル依存症が治れば2人は戻ってくるぞ、ちょっと反省してる振りでもしよう😉
本当に馬鹿ですね!
でもわたしはそこで初めて20の質問を見た時、自助グループのホームページ見た時、病院に電話した時、思ったのです。
「俺ってギャンブル依存症っていう病気だわ」
治らないとかは知らんけど、こんな名前の病気ってあるんやね、アル中やポン中は知ってるけど、俺はギャンブル中毒なんやな。
だからやめられないんだ。
ほっとしたのを覚えてます。
とにかくそのことを元妻に伝え、返事などはないのですが、沢山メールを送りました。
そして、病院に聞いてみました。
その病院は、家族教室というのに参加しないとその後の受診もしてくれないという特別な病院であったため、治療をしたいので、家族教室に一緒に参加して欲しいということを元妻に連絡しました。
そこでは結構早めに連絡があり
「わかりました」
とだけ。
家族教室の日程と時間を伝え、その日を迎えるまでの間に、1度自助グループも行ってみることになりました。仕事の日はなかなか行けないので、日曜にやっている周年記念というのに行こうと思いました。
私はとにかく立ち直ろうとしているアピールのため、そういった状況を逐一メールしていましたが、ほぼ反応はありません。
しまいには、あまりメールしないで欲しいとも送ってきましたが、私はアピールだけはしていました。
間違った、というかおかしな行動ではありましたが、なんにせよ、これが私が
という病気と初めて向き合った瞬間でした。
7月で10年目になりますが、この瞬間がないと今の私も居ないので、出会わせてくれた神と、元妻にはそこは感謝しています。
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